国家公務員を退職し、海外留学を経て起業の道へ

それは、まるで無限の道と出会ったかのような

サークルオブライフ

身内が他界したり産まれたりすることが多くなり、命の繋がりを感じることが多くなった。
大昔生命が誕生したときから、長い年月の間私の先祖が絶えることなく命を育んできたから私は今ここにいる。
赤ちゃんが大人になり、子供を作り、その子供が大人になり、子供を作る。
まさにサークルオブライフ。生命は続く。

おばの離婚を機に、人生とはなんなのか考えていた。
将来、私も離婚をしてひとりでいるのかもしれない。していなくても、妻に先立たれ、ひとり孤独を噛みしめているのかもしれない。その時、子供がいれば良かったと切実に思い、泣いてしまうのかもしれない。または、そんな余裕もないのかもしれない。
それは様々な形をしている。離婚した人、子供がいないまま生涯を終える人、それらが珍しいことではない。そして今自分も似たような道を歩もうとしている。
子供がいなければ、自分が生きていた証がこの世になにも残らない。先祖が絶えることなく続けてきた命を育むという行為を意図的に絶やそうとしているのだ。
それは本当に正しいことなのか。
正しいことをしなければいけないのか。
私はどこに向かって、どこに着地する?

死に際に、いい人生だったと思いたい。
ただ、死んでしまえば全て無に帰すのだ。ならばなぜこのような悩みが出てくるのだろうか。
証など残して何になる。

性同一障害という病気がある。
自己意識に一致する性別を求め、それが自分の体と異なる場合、自己意識のそれに近づけようとする。
私はこの障害と似たものを持っているのかもしれない。なれもしない自分に憧れを抱き、それに向かって何かしようとする。島国に生まれたことを恨んでいるかのように、外の世界に身を染めていく。
誰しもがそうなのか。自分自身に満足している人なんてそう多くはないのだろうか。
満足するためにはどうすればいいか。
本当に自分のしたいことをすることが一番なのか、したいことをするためには必ず何かしらを切り捨てる必要があるものだ。
その切り捨てたものが、将来的に後悔の基になる可能性もある。
何をしてもきっと、なにもかもが手詰まりなんだ。

きっと性同一障害というやつは、本来と別の性別の体を手に入れたとしても、転生して別性にでもならない限りは満足できないのだろう。
私も同じだ、生まれ変わって大陸で育つ経験をしない限り、満足などできないだろう。
だから死が怖いのだと思う。もっと様々な沢山の人生を歩んでみたいのだ。
男で育った後に、次は女としての人生を経験したいと思うように、
島国で育った経験に飽きて大陸での人生に憧れるのだ。
明確な目標がないから、未知のものを知りたがり、探し続ける。


私は今、人に迷惑をかけてでもしたいことをするというそれをしようとしている。

まあ結局、何をしてもいずれ死ぬ。大した違いはない。

人生はきっとメロディーズオブライフ。
儚く流れた後に盛り上がりをみせ、たちまちに消える。